日本遺産

多賀城市の日本遺産

仙台藩を築いた伊達政宗は戦国大名として政治・軍事面での活躍は広く知られているところですが、その一方で時代を代表する文化人でもありました。
上方に負けない気概で自らの“都”仙台を創りあげようと、政宗は古代以来東北の地に根づいてきた文化の再興・再生を目指しました。
この伝統的な文化は仙台に限らず、宮城の広い地域で生きています。多賀城市もそのひとつとなっています。

文化庁では地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として認定しています。
日本遺産はそのものだけでなく、地域に点在する遺産を活用し、地域の様々な魅力たちに触れる機会を増やす目的もあります。
ですので多賀城の遺産を巡ることで、多賀城にあふれる魅力たちを体感するきっかけになるかもしれません。

末の松山1

揺るぎない恋を象徴する松の古木
末の松山
[すえのまつやま]

末の松山2

小高い丘に2本の松が立っています。「契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波越さじとは」どんなに激しい波もこの松を越えることができないように、2人の恋に心変わりなどありえない、と詠まれた百人一首の和歌が有名です。ゆるぎない恋を象徴する歌枕ゆかりの地。恋愛成就を願いに訪れてみてはいかがでしょう、昔の言い伝え通り、2011年の東日本大震災の巨大な津波も、末の松山を越えることはありませんでした。

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多賀城跡外観

古代東北の政治・軍事・文化の拠点
多賀城跡附寺跡
[たがじょうあとつけたりてらあと]

多賀城跡附寺跡

多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国(むつのくに)の国府が置かれたところで、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)も併せ置かれました。また多賀城廃寺跡は多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡で、東に塔、西に東面する金堂があり、その北には講堂が置かれ、中門から延びた築地塀が塔と金堂を取り囲み講堂に取り付くという伽藍(がらん)配置は、大宰府付属の観世音寺(かんぜおんじ)と共通した造りとなっています。

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沖の井1

小さな池と奇岩が織りなす歌枕
興井(沖の石)
[おきのい]

沖の井2

興井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、今もって池の中の奇石は磊磊とした姿をとどめており、古の情景を伝えています。「おきのゐて 身をやくよりも 悲しきは 宮こしまべの わかれなりけり」小野小町(古今和歌集)「わが袖は 汐干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾くまもなし」二条院讃岐(千載和歌集)「おくのほそ道」の旅の途上、松尾芭蕉と同行者の曽良は、この地を訪れました。

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つぼのいしぶみ外観

仙台潘が保護した伝説の石碑
多賀城碑(壺碑)
[たがじょうひ(つぼのいしぶみ)]

石碑

高さ196cm、幅92cmの大きな石碑が、木造の建物に覆われて大切に守られています。これが奈良時代に建てられ、多くの和歌に詠まれてきたという「壺碑」。仙台藩は学術文化を重んじ、領内の歴史的な名所旧跡を保護しました。おかげで壺碑も全国的に有名になり、多くの旅人が訪れました。芭蕉もこの場所に立って同じ石碑を眺めたという思うと感動的ですね。

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